2015/04/26

興味の鉱脈 〜海外ゴシップの楽しむためには〜

ハリウッド俳優の誰々が誰々と結婚!(または離婚!)というゴシップを目にしても、



どちらも知ってるって事ってホント少なくて、

相手が(え、誰?)となる事の方が圧倒的に多いです。



でも、その知られてない人が悪いのでなくて、知らない自分がただただ悪いってだけで、



解消するには映画をコツコツ視続ける事しかないですね。

逆に、映画とかをちゃんと視てれば、それだけ海外のゴシップについて驚いたり楽しめるのだと、感じた事が最近。



今月いっぱいTSUTAYAが100円ということで何本も借りて来ては一切見ずに



返却予定日の前日になって慌てて視始めるのだけど、間に合わず何本かは視ずに返す、

っていう失敗をあいも変わらず繰り返してるんですが、



見事に!(?)何とか視る事が出来た作品の一つに



フランス映画の「シェルブールの雨傘

というのがありまして。


これも、今まで借りては視ずに返し、を2度ほど繰り返して来た作品で、

ある意味



金がかかってる訳なんです。

何故、そんなにも執拗にお金をかけるのかと言いますと、興味があるからです。

興味があるけど、視ずに返すんです。



だから、それは興味がない訳ではなく、単なるミスなんです。

【なぜ、興味もったのか】と言えば、



以前視たNHKのプロフェッショナルの流儀。

桜花学園という女子バスケで日本一のチームがありまして、

何十年と優勝導いてる名監督の井上眞一先生が取材されてたんですね。



井上先生は映画が好きらしくて、特にラブロマンスものが。

で、「中でも特に『ローマの休日』とコレ、」と紹介されてて、



キッカケとしてはただそれだけなんですが。



で、肝心の「シェルブールの雨傘」は

上述の通り恋愛モノで、



愛し合うカップル(傘屋の娘と自動車整備工の貧しい若者)が親に反対されながらも恋愛を謳歌していたが、

その内、男の方が2年間徴兵され、帰りを待ってる女の前に金持ちの男性が現れて…

という、



まぁ、その後の展開も切なくはなるんですが、あっと驚くような意外な話ではないんです。ないんですが、

重要な要素としてはあと、ミュージカルという点。

ミュージカルはミュージカルなんですが、

皆さんが想像するような一般的なミュージカルじゃないんです。



完全なるミュージカル。

《皆さんが想像するような一般的なミュージカル)ってどんなんでしょう?

ミュージカルと謳ってる作品って幾らでもあるんですが

でも、セリフに節をつけて歌う肝心のミュージカル部分って、

全体から考えたら一部、っていうのが殆どだと思うんです。



それを「よくある」ミュージカルとするならば、

「シェルブールの雨傘」は全く違ってて、

すべてのセリフにリズムをつけて歌う「完全なミュージカル」なんです。



映画の他にも宝塚等舞台で結構ミュージカルに触れてる身として(だからこそ?)

これは衝撃だし、



1964年の映画で、言ったら50年前の作品ですから、今にしても斬新です。



あと、主演のカトリーヌ・ドヌーヴが綺麗でね。

欲求不満が日々濃くなってきますと、映画を視終わって思う事といえば



映画論などそっちのけで

「カトリーヌ・ドヌーヴ、綺麗だな〜」

って感想だけ。またそれを部屋で一人呟く位のもので。



そしたら次は、カトリーヌ・ドヌーヴの事を調べるって事になって、ウィキペディアなんかで。

そしたら、子供が2人居て、

息子と娘。

ふむふむ。



両方とも俳優してて、息子がクリスチャン・ヴァディムで娘の名前がキアラ・マストロヤンニ。

そこで娘の名前の方に驚くんですね。

(マストロヤンニ?)と。

(マストロヤンニって、もしかして?)

で、予想通り、マルチェロ・マストロヤンニがお父さんなんですね。



マルチェロ・マストロヤンニっていうのは昔のイタリアの俳優でして、

「ひまわり」とか「甘い生活」等に出てるんですが。

「ひまわり」を視た時、僕はソフィア・ローレンより

マルチェロ・マストロヤンニの方が気になって、、なんか好きなんですよね、色気があって。

何で好きか自分でも解んないんです。

「ひまわり」でのハマりにハマった役柄なのか、マルチェロ・マストロヤンニっていう変な名前なのか。



でも、演技力について、では絶対なくて。それは

マストロヤンニが下手っていう事じゃなくて、

僕が演技の上手下手の判定がわからないって事です。

特に外国人の演技は解んないから

演技については「みんな演技下手」じゃなくて、「みんな演技上手い」となります。



ただ

マルチェロ・マストロヤンニについては

二階堂ふみがマルチェロ・マストロヤンニ賞という賞を受けてて、

演技が相当上手い二階堂ふみが受賞してる賞だから



(あ、これは演技が相当上手い人に贈られる賞なんだな。

(ということは、マルチェロ・マストロヤンニは演技が相当上手いヒトなんだ)

と、二階堂ふみを基準に判断する位で、演技とか何も視れてない。



まぁ、とりあえず、カトリーヌ・ドヌーヴにマルチェロ・マストロヤンニとの間に娘がいて、

そこに婚姻関係はなくて長年に亘り愛人関係だった、という大昔のゴシップについて



今更ながら知るに及んでは驚いた訳です。



コレに似た事が別で、、、

「真夜中のカーボーイ」という映画も好きな作品で、


ダスティン・ホフマン(右)は勿論ですが、主演のジョン・ボイト(左)も最高なんですね。

で、ジョン・ボイトを調べたら、



娘が

アンジェリーナ・ジョリーなんです。

これは「真夜中のカーボーイ」を視てないとありえない驚きでして。



別に知ってなくても全く役には立たないのですが。

真夜中のカーボーイを見てなければ、ジョン・ボイトを一生知らなかったかも知れない訳で。

その場合にジョン・ボイトを知るとすれば

《アンジェリーナ・ジョリーからのジョン・ボイト》経路でしょうし、その時もきっと「誰?」ってなるに違いなく、



仮に「真夜中のカーボーイ」視てジョン・ボイトを知ってても「へぇ〜」位だったかと。

それが

《ジョン・ボイトからのアンジェリーナ・ジョリー》経路の衝撃度はといえば、、、血が止まりそうでした。



僕の中でとりあえず、今年のビックリNo.1です。

アメリカも当時(いつだか知らないが)驚いたんですかね?



長々と、どうでもいい話ご静聴ありがとうございました。

2015/04/13

路上キスはスルー出来ない

平日の夕方6時半、家へ急ぐ数多のサラリーマンが行き交う地下鉄なんば駅。



その間を掻い潜り僕は日本橋駅方面へ急いでいた。

両駅をつなぐ地下街「なんばウォーク」は駅フロアより低く、



進入口のスロープでごった返す人並みに邪魔されながらも最大限に急ぎ下ってる最中、

目の前のカップルが



突然キスをした。



(なんばウォークのスロープでキスすな!)と突っ込みながら黙殺して追い越しながら、

その瞬間から僕の目に映る世界は



【なぜ、あの2人はキスしたのだ?】



というテーマで充たされた。

これは、



欲求不満な男のヒガミ、ではない。



(どこでキスしてんねん!)とは思いつつも、

(どこでキスしてもいいだろ!)という事は




紙一重、というか

背中合わせ、というか

もはや《同義》である。



それにはちゃんと納得しているのです。

本当です。



納得しておるのですが、

どんな行為も論理的な理由に基づいている、という考えのニンゲンなもんで、ずっと



(彼らはなぜ、キスをしたのか?)

(そういえば、男から誘ったんだっけ?)

(どっちなんだっけ??)



(女の方からだったかな?)

(アレは2人が同時にキスしようと思ったキスだったのだろうか?)



(片方がキスしたくて、

それをもう片方が瞬時に察してキスで応えたけれども、

別にしたかった訳じゃない可能性もある訳だし。)



(その場合、一見キスらしく見える両者の行為は果たしてキスなのだろうか?)

(え、俺欲求不満なん?)と…その日は、そういう疑問で彩られた出勤になった。



もし人生のサイクル、周期というものがあるとしたら、



とりあえず、今の僕は

(大勢の人の流れに足止め食らってる時に目の前のカップルがキスし始める)周期に入ってるようです。



蛭子さん風に描くと…

2015/04/12

食の敗者

どうも、食事でよく失敗する者です。



失敗

と言いましても



塩だと思ってかけたのが砂糖だった、とか

スパゲッティをじゃなくてペンネで出てきた、

みたいな、(テヘっ)(ぺろっ)と明るく片付けられるロマンチックコメディ的な失敗じゃなくて、



妬み、嫉みで充たされた、陰湿な、メニュー選びの失敗である。

といいますのも、



外食などは本来、各々が好きなメニューを勝手に頼んで勝手に満たされればいいものなのに

『そのお店において、どっちのチョイスが正解か?』という、

意味のない過当競争的なテーマが潜在意識としてあるような気がします。少なくとも僕はあります。



人と食事に行って別々のモノを頼むと、

相手のチョイスの方が大体において優れています。

僕の方が優れていた場合など、

今までの人生(31年)で2回ぐらいしかございません。


これは別に、「他人(ヒト)の女がキレイに見える」症候群の一種でもなくて、

慢性的な

メニュー選びのセンスの欠如です。



少なくとも最初はそうでした。

原風景、とでも言いましょうか、

今でも覚えているのが

大学の受験で岡山に行った時に、テスト終わりに一緒に受けた友達と焼肉ね。



相手は、量は少ないがエエ肉のセットを頼みまして、

僕は、量が多くて、質は???? 〈その量でその値段ナリの〉質なんですが

また、両メニューの値段の差が500円位とそんなに変わらないんです。

で、食事が進むと、別に、(たくさん食べたい!)(イエーぃ!)と思ってる訳でもない自分に気づいて、

そう気づいたら気づいたで、食も進まなくなり、美味しくないわけです。



方や、

相手はエエ肉を適度な量を食べてて、

500円くらい高くても、

絶対的にアッチなんです。



そこで、【自分のメニュー選びのセンスの無さ】という刃を自分で自分に突き付けた初体験です。

自認しつつ、

相手も相手で、10年以上経っても今でもチクチク「お前、あの時…」とその刃を突き付けてきます。

だから

主観の問題じゃなく、

絶対的な、確固たる、客観的事実なのです。



もしかしたら

(そんな自分だから)(どうせ…)という意識が強過ぎて、

【どんなメニューを頼んでも相手の選んだモノの方が正解なのでは?】と思ってしまう、

負のスパイラルに陥ってるのかも知れません。

ここまで読んでくれた人の中に一人くらいは、



「相手がいるからそう思ってしまうだけで、一人で行ったら違うでしょ?」

と言ってくれる人がいてくれるかも知れませんが、

そんなことはありません。

1人で行っても失敗します。



とりあえず、今日も失敗しました。

うどんチェーンの、

名前は言えませんが、、



○亀製麺としときましょう、あまり行かないけど、行ったんです。

で、初めて「釜揚げうどん」というものを頼んだんです。



知らなかったんですが、

デカい木桶の器で出て来て、

そこから掬って別の器のつゆにつける、つけうどん的に食べるメニューなんですが、



うどんの長さがめちゃくちゃ長かったんです。

つけ麺的に食べるので、長過ぎると、、


片手の長さより長い





麺が途切れるのを待つ、という概念を捨て、摘まむなりどんどんつゆに付けて豪快そうに食べていく→口に入ってる麺が汁の器、元の桶器と繋がっている→汁、つゆ等が飛び汚い



食べにくい><

『食べにくい』と仮にいくら美味しくても、マズくなってしまいます。



で、今回のうどんも取り立てて美味しい訳でもないのだから余計に腹が立ってきて、



(失敗だ…)

(つくづくセンスないな…)



(生きてる意味あるのか…?)と結局【思う】事しか出来ないのです。

何が腹立つって、

普段めったに行かない店で失敗するのが《余計》腹立ちます。



とりあえず、

リベンジで◯亀製麺に行くまでは



この腹の虫は収まらぬ!



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