2016/05/14

パッと買って、視て、パッと帰るTakarazuka 〜花組『ME AND MY GIRL』〜




こんにちは。



さて、昨日は

現在公演中の花組『Me and My Girl』を視に宝塚大劇場に行って来ました。




当日思いつきました。

僕は毎度、



(あ、そうだ、宝塚行こう。)




と、当日思い立って、視に行きます。



僕は、何ヶ月も前からチケット買って、、、

という様な楽しみ方が出来ません。




何ヶ月も待ちに待って、いざ当日



(面倒くさいな)



と、気が変わってしまう事があるからです。

それにしても何千円かの、少なくないお金をかけてる訳ですから視に行かない訳には行きませんので、



結局のところ、半強制的な感じで宝塚まで赴かなければならない、という感じになってて、

つまりは



しんどいんです。



だから僕の宝塚の楽しみ方は

パッと当日券買って、視て、パッと帰る。



というもので、会社帰りにドラッグストアでシャンプーくらいの軽い気持ちです。



ボトルじゃなくて、詰め替え用くらいの気軽さです。

軽い気持ちだから何回も行ってしまうんでしょうね。



昨日は、13時からの一公演だけで、

公式ホームページの当日券情報を目にしますと

《多数ご用意しております》との事でしたので、ゆっくり、開演の15分前に着いて、



で、

当日券買おうっと思ったら売り切れてまして。



…っていうのが展開としては宜しいのでしょうけども



残念ながらといいましょうか

幸いといいましょうか、



当日券は残ってましたので、財布開けてお金渡してチケットもらって、

要するに、視て参りました。




今回の『Me and My Girl』は宝塚を代表する演目の一つで、

いままで何度も再演されてきました。

95年には天海祐希さんも主演されておりますし、真飛聖さんも09年主演です。



08年月組のME〜は

僕が宝塚を初めて視た作品でもあります。



当時、上から4,5番手くらいですかね、

ビル(主演)を追いかけ回すジャッキーという女の子の役があり、

そういう女の子を、男役にして演じられていたのが明日海りおさんで、



((こんな〈現代的なカワイイ子〉がいるのか!))

と、明日海りおさんの、その美貌に感動しまして、



それで、今日に至ります。



明日海りおさんが僕が宝塚を見るようになったきっかけ、というか

《原因》です。



その明日海りおさんが月組から花組に移り、男役トップスターになられ、8年の時を経ての、満を持しての主演です。




1930年代、ロンドンのとあるヘアフォード伯爵家(上流階級)の当主が亡くなり、後に誰が相続すんねん!と揉めてるところに探し出されたのが、先代がどっかで産み落としたビルという青年(男役トップ)で。それが彼らにとっては宜しくない貧しい下町育ちなもんで、「そんな奴に相続させられるか!」と反対する人も居たり、そのビルについてきた恋人・サリーを差別して引き裂こうしたり、「それなら相続せーへんわ!」と、当時の英国の上流階級とそうでない階級の対立と相克がモロに描かれている楽しいミュージカルです。


みなさんは映画、アカデミー賞を獲った『英国王のスピーチ』(コリンファース主演)を視られましたでしょうか?





その映画で、ジョージ6世のお兄さんで、アメリカ人の女性との不倫関係でスキャンダル化して、結局その女性との恋を選んで英国王位を退位したエドワード8世が出てきますが、そのエドワード8世のスキャンダルを上流階級の保守的な伯爵家の人々が皮肉的に語っているセリフもあり、

作品を跨いでの、横の繋がりが面白いですね。

で、

エドワード8世とアメリカ人との恋をメインにした作品も12年に霧矢大夢さん主演でやってて、その霧矢さんは2008年に博多座公演ME AND MY GIRLでビルを演じています。



…話が逸れましたが。



僕は、そういう、話の大筋や、最後2人はどうなるのか、っていう結末とその演出を全部知ってるのに

毎度感動しています。



今回、横の席の人もラストの方は泣いてました。

僕の分も泣いてたくらい泣いてました。

泣きながらも双眼鏡はちゃんと掴んで覗いて、見るとこは見てて、



どないやねん

と思いました。



今回考えたのは、



結末を知っているのに懲りずにまた感動する、っていうのはどういう事だろう?

って事です。宝塚に限らず映画や本でもありますよね、何度視ても感動する作品。



これに関して、最近読んだ本の一冊『街場の文体論』(内田樹著)を読んでまだ心に残ってる事の内の一つを思い出しました。





P.61-62
ー読書というのは、「今読みつつある私」と「もう読み終えてしまった私」の共同作業なんです。どれほどストーリーが錯綜して、謎が深まっても、僕たちが忍耐強く推理小説を最後まで読めるのは、最後に名探偵が全てを解決してくれて、「なるほど、そういうわけだったのか」と得心している「読み終えた私」を想定しているからです。その「読み終えた私」が保証人になってくれているからこそ、「今読む」ということができる。...



内田先生はこの項で、ミステリーを題材に本と電子書籍について語っていて、

その本意と、もしかしたら違うかもしれません。



でも



そういうセンスと、僕がMe〜で毎回感動するのは

どこか繋がるんじゃないだろうかと、僕は思う訳です。



〈ミュージカルなんて「なんで歌うねん」とか「そこで歌い始めるの、おかしいやろ」とか

「死にかけてんのに何で歌うねん」とか…〉

冷静に視れば

全てが全てそう思わずにはいられません、



がしかし

そんな、冷静な自分の他にもう一人、



《自分を騙しつつ、最後に感動する自分を目指して視ている自分》っていうのも、居るのです。



ある意味

精神的一人プロレスです。



つづく

0 件のコメント:

コメントを投稿