2014/07/24

アノ憧れた膨らみ 〜天神祭①〜


大阪に何年もいながら、その大阪が誇る「天神祭」は長年他人事でした。



参加するのでもなく、見に行くのでもなく

辛うじて、いつも賑わう繁華街が祭りの為に客が奪われた喪失感を感じる程の、



ただの傍観者でさえありませんでした。

しかし、今年はついに当事者になりました。



御羽車講の一人として、菅原道真公の御神体を載せた御羽車を



天満宮(天神場所筋1丁目)から6丁目まで商店街を担いで練って歩く、というもので

神事に携わる者、いや



神の使いに飛び級です。


□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

僕は学生の頃から社会科歴史が好きだったのですが、



その学生時分より

教科書に出てくる公家や武士の装束の【とある部分】に強い羨望を抱いて来ました。



それは

公家の普段着である「直衣(のうし)」の前胸腹部の膨らみ、









そして、武士が参内時に着用する「裃」のツッパリ。







それらの衣装を着てみたいというコスプレ的な興味ではなくて、

ただ(中に何が入っているのだろう?)という興味。

「何も入ってない」に違いないのです。

何も詰めなくてもああいった型が成されているに違いないのです。



仮に、そこに何かあっても幻滅するでしょうし、

期待通り何も無くても、

幻滅するに違いありません。



しかし、どちらに転んでも絶望する、という状況に追い込んだのも自分に違いないのです。

むしろ絶望する為に希望した、そんな形跡があります。



それはもはや孝明天皇以前の、御簾の向こうに押込められた存在と同格です。



あの御簾の裏側に確実に存在していなければならない存在。

が、絶対目にしてはいけない存在。



目にした時点で信仰の対象の、その資格を失わせる自己中心性。

ある意味で《信仰》とはそういう事に違いありません。

そう考えると、



天子の前に垂れ下がっていた御簾の設置は、

勅命でなく、天皇信仰維持の公家官僚の知恵に違いないのです。



ふりかえると、直衣の前面のあの膨らみは、ある意味【信仰】でした。



そして、

その膨らみの正体を確かめる手段は二つしかありません。



実際に自分で直衣を着るか、

直衣を着た人に「すみません、中を見せてもらってよろしいでっか?」と新居の見学人の様に頼み込むか。

後者は絶対あり得ません。だって変態じゃん⁉︎



となると、実際に直衣を来なければ僕は永遠にその正体を見れない訳です。

結局幻滅するなら



憧れを憧れのままにしておくのも一つの手なのですが、



しかし

あの膨らみを確かめる不幸めいたチャンスは向こうからやって来たのです。



それが今日の衣装でした





果たしてこれが直衣かどうか分かりませんが、

あの膨らみが自分の目の前に作られていきます。



果たして

その正体が分かると



あれほど幻滅を期待するほど憧れた割りに、感慨はそれ程無く、

「なるほど、こうなってるのか」と



ただの技術的な感動だけでした(爆笑)

0 件のコメント:

コメントを投稿