2014/07/26

企み 〜天神祭②〜

つづきー。



さて天神祭は前回23日に続き昨25日も御羽車を担いできました。



担いで、といっても本当に担ぐわけでもなく

御神体(御霊代)を頂く、方形の神輿、である御羽車は



その名なり?に台車に乗せられているので、計四人で楽に引いてゆけるのです。





しかし、周りには(担いでると見える)様に、常に腕を担ぎ棒に絡ませていなくてはなりません。



腕がそのカタチに固まってしまうので凄く辛く、

また35度を超える猛暑が扶けて、さらに辛い。



そういう時でも「いかに楽しく遣る」アイデアが必要です。

辛いことを辛いまま遣ってても、意味がありません。

辛い事を以下に楽しく遣る事で、ただのバイトが意味あるモノに昇華されるのです。



「おもしろき こともなきよを おもしろく」という高杉晋作の辞世の句は

148年後にこのバイトすることになった僕の為に詠った、とさえ思うほどです。



ということで、今回僕はこの2日に亘り



「いかに、本職の人と見てもらえるか」というテーマで

能面のごとく無表情に徹して参りました。



もはやコントです。すでにコントです。



【無表情】【無反応】が神職としての威厳を構築していくのです。

沿道のどこか片隅で誰かが



「あの御羽車を担いだり、旗や提灯持ってる子達ってバイトなのよ、知ってる?」

「え、そーなの?確かに見てたらバイトって判るわね、何かチャラチャラしてるし」

「あ、でもあの御羽車の前のかついでる、あの手前の。あの人はきっと本職の方よ、他の子達と違うもの」



という会話がなされている事を夢みながら、そう信じて、

やり過ごして居ました。



(だからといって、世の中に何の役にも立たないのですが!)



果たして、そんな会話がこの世に生まれたのかどうかも判りません。

でも一つハッキリしたのは、



装束の着崩れを排し、無表情、無反応に徹していますと

写真やホームビデオのカメラを向けられやすい、という事です。

それ僕が見切れているのかどうかは知りませんが、特に外国人とかがよく



御羽車と一緒に僕を収めてたのではないでしょうか。

(今、僕を撮っている!)という、その自意識は一切根拠はないのですが



撮られていない、という事も限らないわけですから、



いかに、「神の使いという神職を本職とされている人」として視て貰うために

油断ならないのです。



出来るだけ多くの家庭の記録媒体に僕がイカニモソレラシク写り込んでいる、という

勝利を夢想しにし尽くす悪の自意識、



それでいて一滴の利益、一筋の損失さえもたらさない、世に無意味な悪を企んだ二日間でした。








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