2015/01/09

古い笹

古くなった笹を今宮戎神社に返しに行った。



これは大切な事である。

この時期に返さないと、もう返せないのである。



いや、返せると思いますよ。年中受け付けてはいるはずです。

心理的に、返せないのです。

もし正月乃至十日戎までの時機を失えば、それはイコール、



8月くらいになっても部屋に飾られてある

オア

取り敢えずゴミ袋に入れて玄関に置いてある、

のどっちかである。



しかし

「返しに行かなあかんなぁ」という気持ちは、笹が目に入るたびに心に興るのであり、

もはや、心の腫瘍になりうる。

でも夏の大阪市内を笹を持って自転車を走らせたくないのも確かで、

だから、「笹いつ返すの?今でしょ!」なのです。



去年は

笹に色々飾りを付けてしまい

我が財布に大打撃を与えてしまった。

本末転倒である。



年中の無駄遣いは怠慢な自己管理のせいであるが、馬券での赤字続きは、

その都度その都度の予想は全力の限りを尽くしているので、

であるのに神はそれをお赦しにならなかった。という事は

すべて今宮戎の笹に始まるのではないか。

と、責任を押しつけがちになるが、そうもいかず。



黒字にしろ赤字にしろ

その結果に今宮戎神社のアノ笹がいかなる影響と与えているのか

本当に知りたい。

笹を買ってなくても赤字にだったんちゃうか?とか。



ご利益などないのかもしれないし、あるのかもしれない。

でも、当の笹は返しに行かなければならない、らしい。

返しに行ったら悪い事が起こらないのか?

返しに行かなかったら、良いことが起こらないのか?

それさえも判らないのである。



ただ、その様な、あるのかないのか判らない不確かな【笹の取り扱い】にしても

出来ることをしないのは

その時点での己の生活に廃退の色みを見て取れる。

面倒くさがりの者にとれば



笹を返しに行った事は、すなわち「達成」なのだ。

今年はもう笹を買うつもりはないが、別に買わなくても

笹をちゃんと返しに行けただけで、今宮戎の商売繁盛の御利益を賜われそうな気がする。



この無根拠なポジティブシンキングで今年も乗り越えていこうと思います。

笹を返す、等々の訳のわからない根拠なきしきたりは

それ自体が合理的でないし、

それ自体をちゃんと遂行していく事も合理的ではないのである。



しかし、人々はそれを粛々とやるのである。

不経済な事を。

そこらへんの合理性、経済性の超越が



いわゆる

【宗教】なのです。



唯一の光明を見出すとすれば、

自己管理に繋がるところか。

そう考えると、



宗教というのは、

怠け者には神には微笑まない、自律性のある者が利益を蒙る事が出来る、



または自己管理意識を促す【装置】なのかもしれない。



または

そうじゃないかもしれない。



以上。

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